母との記録と思い 60歳を前にして天涯孤独、無職となった今

2020年6月に亡くなった母とそれまでの自分1人で挑んだ在宅介護の記録

1年前の今日6月2日は

母が訪問入浴をしました。

本人は意識は無かった。

たぶん睡眠状態か朦朧としたままだと

思います。

ベッドからお風呂へは持ち上げられた母。

もう痩せこけて ふっくらしてた

母の面影は無かったです・・・

 

それが人生最後の"お風呂"でした。

 

どう? さっぱりした?

良かったな・・・お母ちゃん・・・

 

それから2019年 7月

母が がんの告知を受けました・・・

 

自分一人では母を支えきれない・・・

 

心細いので 従姉妹にも付き添ってもらった・・・

 

その日 病院でどんな話があるのかずっと 伏せていました

 

だから 病院までの道中 久しぶりに会えた従姉妹と

 

楽しそうに・・・昔話をして・・・笑って・・・ました・・・

 

待合室で 母と従姉妹がおしゃべりしている間に

(母の気を紛らわせるのに  ほんと 従姉妹に来てもらってよかった)

 

自分は先生から 母の病状と現状のステージ具合を聞きました。

病名は ”子宮頸癌” ステージ4 末期です・・・

余命は・・・よくもって 1年 早くて半年と・・・

診察室で泣いた・・・

 

事前に先生には ”がん”という言葉は使わず

オブラートに包んだ言い方をしてほしいと

打ち合わせしました。

 

気を 落ち着かせて

そして母を呼びました。

母は告知されるとは思っても居ません。

いつもの診察だと思っています

ただ今日は先生から話があるという事だけ

伝えてあります。

 

そのけなげな母の姿・・・かわいそうで・・・

 

母には ”子宮に悪い出来物が出来ている” と先生が伝えました。

”いわゆる がんというやつですわ” と先生・・・

結局何気に 言ってしまってます。

 

”がん?” と 母・・・

 

”子宮から出血が出ていると ただ、今直ぐ命に関わるような事は無いですよ” 

と先生。

 

”幸い今はお腹が痛いとか無いので大量に出血が出たらまた相談して下さいと・・・”

と先生

 

”あの〜手術はしたほうがいいの?” と 母

 

”このご年齢は手術は難しいですわ”と 先生

 

”薬飲んでたら 治りますか?”と 母 

薬で治ると思っている母が・・・

 

”薬ではむずかしいですね” と 先生

 

”入院しなくていいの?”と 母

 

”今は普段の生活が出来ているので 今までどおりでいいと思います”

と 先生

 

僕は耐えられず母の後ろで泣けた・・・

それに母が気づいて泣きだして・・・

父のときもそうだったけど本人の前では涙は見せたくなかったんです。

(悲壮感漂うので)

 

”がんみたいな物はへっこむことはないの?”と 母

”へっこむことは無いけど 今は体調がめちゃくちゃ悪いという事も無いので

様子を見ながらでいいと思います”と 先生

 

手術、薬、 抗がん剤は高齢の為、使う事はせずに

経過観察になります。

抗がん剤は自分も母の年齢を考えると死を早めると

思いました。

 

入院をしなくていいということで 母も少し ホッとした様子。

 

”心配ごとはないですか?”と先生

 

”今? 僕の事が心配で・・・” 母が泣き出して・・

自分と従姉妹も泣き出して。

 

でも大丈夫と 母をなだめた・・・

 

”また困った事あったら何時でも言うて下さい”と先生

 

”はい わかりました” 

”いい〜い? ありがとうございました”と 母

 

これで 11分間の 厳しい先生からの母にと厳しい説明が終わった。

この日を迎えるまで仕事が手に付かない時もあった。

 

余命が1年なのか 

半年なのかもっと先なのか解らない母との

不安の日々が始まりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それから母との二人三脚

それから母との二人三脚の生活が始まりました

 

2008年に膝の手術をしてから良くなると思いきや

 

リハビリをしっかりしなかったせいなのか

 

いっこうに傷みが和らぐ事が無かった。

 

何の為の手術だったのか・・・

 

そのため 長い距離を歩く事、ましてや自転車に乗る事も出来なかった。

 

なので それから父が亡くなる一ヶ月前あたりから

 

ずっと母と一緒に買い物に行ってました。

 

母は行きたいスーパーがあちこちにあって

 

”あそこと ここと 回ってな” って・・・笑

 

大体 自分が休みの土曜か日曜。

 

だから 休日の およそ多いときで2時間は買い物。

 

出先からも夕刻には早めに帰らなければなりません

 

でも 母に出来る限り ストレスを与えたくなかったので

 

その時間を楽しみ共有する事にしました。

 

2012年

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2011年 9月 父が亡くなりました。

衝撃でした。

自分は一人っ子・・・

母と父と3人暮らしが

2人になるということ

 

凄く寂しい気持ちに耐えられず

音のない部屋が嫌で とにかくテレビをつけていました。

 

親が居なくなる現実を始めて実感して悲しくて

後悔して・・・

 

自分は未婚なので

それから 母との2人暮らしが始まりました。

 

母には ”お母ちゃん・・長生きさせるからな” と言いました。